料理愛好家としておなじみの平野レミさん。テレビで見せる明るく豪快なキャラクターからは想像しにくい可能性がありますが、若い頃はシャンソン歌手としてステージに立ち、1970年にはレコードデビューも果たした本格的な歌い手でした。
平野レミさんの若い頃を振り返ると、千葉県松戸市で過ごした自由な幼少期、父・平野威馬雄さんから受けた文化的な影響、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」での歌手活動、そしてイラストレーターの和田誠さんとの出会いが見えてきます。2026年に報じられた本人の回想も交えながら、料理愛好家になる前の人生をたどります。
【幼少期】平野レミは千葉県松戸市育ち!父・平野威馬雄との家庭環境

平野レミさんは1947年3月21日生まれ、東京都出身です。ただし、幼少期を過ごしたのは東京都内ではなく、千葉県松戸市でした。
本人が住宅関連メディアのインタビューで語ったところによると、小さい頃に松戸へ移り住み、結婚するまでその家で暮らしていたそうです。
当時の住まいは庭の広い日本家屋。庭には温室や東屋があり、父親の書斎や茶室も備わっていました。現在の住宅事情から考えても、かなり特徴的な家庭環境です。
子ども時代のレミさんは、近所の子どもたちを率いて遊ぶガキ大将のような存在だったといいます。森へ遊びに行ったり、かくれんぼをしたりと、活発な少女だったことが本人の回想から伝わってきます。
若い頃の写真から感じられる明るい雰囲気や、現在のテレビで見せる物おじしない姿勢は、こうした自由な幼少期とも無関係ではなさそうです。
父親は詩人・フランス文学者の平野威馬雄平野レミさんの父親は、詩人でフランス文学者の平野威馬雄(ひらの・いまお)さんです。
モーパッサンなどの翻訳を手がけた文化人であり、文学や芸術に関わる人々との交流も盛んでした。家庭には詩人や芸術家など、さまざまな人が訪れていたといいます。
特に注目したいのは、父親が娘の興味を頭ごなしに否定しなかったことです。
2026年3月放送のNHK Eテレ「最後の講義」でも、レミさんは高校を辞めたいと相談した際、父親が理由を細かく問い詰めずに受け入れてくれた思い出を語っています。
「好きなことを徹底的にやれ」
※2026年3月の番組出演について報じたスポニチの記事で紹介された、父親の教え。
この言葉は、その後の人生を考えるうえでも重要です。シャンソン歌手として活動し、さらに料理愛好家という独自の肩書を確立した平野レミさんの生き方には、好きなことを追求する姿勢が一貫しています。
シャンソンとの出会いは家庭にあった幼い頃から自宅にはフランス人やアメリカ人の客が訪れ、レコードを持ってくることもありました。
レミさんはレコードプレーヤーを操作し、流れてくるシャンソンのメロディーをまねして歌うことを楽しんでいたそうです。
フランス語の意味は分からなくても、音の響きや旋律に魅了されていたと、2025年のオーディオテクニカのインタビューで振り返っています。
やがて父親が本格的な歌のレッスンを受けさせることになり、オペラ歌手の佐藤美子さんに師事しました。
つまり、平野レミさんの歌手としての原点は、芸能界に入ってからではなく、松戸の自宅で音楽に親しんでいた子ども時代にあったのです。
【学歴・経歴】進学校を中退してシャンソンの世界へ
都立上野高校から文化学院へ平野レミさんの学歴で興味深いのが、進学校を中退した経験です。
2026年3月のNHK Eテレ「最後の講義」では、東京都立上野高校に進学したものの、学校の雰囲気になじめなかったことを明かしました。
当時の上野高校は進学実績のある学校でしたが、レミさんにとっては勉強一色の環境が窮屈だったようです。授業や宿題への意欲を失い、最終的に学校を辞める決断をしました。
父親に相談すると、返ってきた答えは意外にもあっさりしたものでした。レミさんは、そのとき父親が自分の意思を尊重してくれたことへの感謝を語っています。
その後は御茶ノ水の文化学院に移り、好きだった歌に本格的に取り組むようになりました。
学歴だけを見ると、一般的な進学校からの進学コースを歩んだわけではありません。しかし、本人の興味を優先する進路変更が、後のシャンソン歌手としての活動につながっていきます。
声楽家・佐藤美子に師事レミさんが歌を学んだ相手は、日本で初めてオペラ『カルメン』を演じたことで知られる声楽家の佐藤美子さんです。
松戸から神奈川県鶴見にある先生の自宅まで、週2回通ってレッスンを受けていました。
佐藤さんはプロ歌手になることに慎重な考えを持っていたそうですが、レミさんは次第にピアノ伴奏だけでなく、生バンドをバックに歌いたいと思うようになります。
そこで挑戦したのが、銀座の日航ホテルにあった日航ミュージックサロンのオーディションでした。
本人はプロ歌手になることを最初から強く目指していたわけではなく、バンド演奏で歌ってみたいという好奇心から応募したと語っています。
結果は見事合格。こうして、平野レミさんのプロとしての歌手活動が始まりました。
【歌手時代】銀巴里で活躍!1970年『誘惑のバイヨン』でデビュー
銀座の日航ミュージックサロンと銀巴里を掛け持ち若い頃の平野レミさんを語るうえで欠かせない場所が、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里(ぎんぱり)」です。
銀巴里は、美輪明宏さんらも出演したシャンソンの名所として知られていました。
レミさんは日航ミュージックサロンのオーディションに合格した後、銀巴里からも声がかかり、両方のステージに出演するようになります。
2025年のオーディオテクニカのインタビューでは、日航ホテルでのステージを終えると、銀座7丁目の交差点を渡り、ドレスとピンヒール姿で銀巴里へ向かった当時を振り返っています。
1日に5回ほどステージに立つこともあり、食事をする時間もないほど忙しかったそうです。
現在の料理番組で見せるエプロン姿とは違い、若い頃はドレスを着て、シャンソンを歌う華やかなステージ生活を送っていました。
1970年の歌手デビュー曲は『誘惑のバイヨン』平野レミさんがレコードデビューしたのは1970年。日本コロムビアから発売されたデビュー曲が『誘惑のバイヨン』です。
ただし、本人が歌いたかったのはシャンソンでした。レコード会社からは、当時シャンソンが下火だったことを理由に、最初の曲は流行歌にしてほしいと求められたといいます。
そのため、デビュー曲はシャンソンではなく歌謡曲になりました。
その後も『チョッと気になるロック』『明日の旅』などの楽曲を発表。4枚目には『カモネギ音頭』も登場します。
『カモネギ音頭』は、コミカルな歌詞と独特の演出が特徴的な楽曲でした。本人のインタビューによれば、曲が中ヒットしたことで、銀座の歩行者天国でネギを入れたカゴを背負って宣伝するよう求められたこともあったそうです。
しかし、その宣伝方法には抵抗があり、歌手活動から離れる決断をしました。
平野レミの若い頃の経歴・年表| 時期 | 出来事 | 主なポイント |
|---|---|---|
| 1947年 | 東京都で誕生 | 3月21日生まれ |
| 幼少期 | 千葉県松戸市で育つ | 父の影響でシャンソンに親しむ |
| 学生時代 | 都立上野高校を中退 | 文化学院に移り、歌を学ぶ |
| 20代前半 | プロ歌手として活動開始 | 日航ミュージックサロン、銀巴里に出演 |
| 1970年 | 歌手デビュー | 『誘惑のバイヨン』を発売 |
| 1972年 | 和田誠さんと結婚 | 出会いから約10日で結婚 |
| 1985年 | NHK「きょうの料理」に出演 | 料理愛好家として活動を広げる |
| 2025年12月 | シャンソンの舞台に復帰 | 約35年ぶりの大舞台 |
| 2026年 | 自伝出版・テレビ出演 | 人生と料理、歌について発信 |
この年表から分かるように、平野レミさんは最初から料理の専門家だったわけではありません。歌手としての経験を積み、結婚を経て家庭料理の魅力を仕事に変えていった人物です。
【和田誠との出会い】久米宏のラジオが生んだ10日間のスピード婚
出会いのきっかけはTBSラジオ「ミュージック・キャラバン」若い頃の平野レミさんの人生を大きく変えたのが、イラストレーターの和田誠さんとの出会いです。
当時のレミさんは、TBSラジオの番組「それ行け!歌謡曲」内のコーナー「ミュージック・キャラバン」で、久米宏さんのアシスタントを務めていました。
和田さんはラジオを聴いてレミさんに興味を持ち、共通の知人だった久米さんに紹介を頼んだといいます。
ところが、久米さんはすぐには紹介しませんでした。
2026年3月のNHK Eテレ「最後の講義」でレミさんが振り返ったところによれば、久米さんは和田さんに対して、彼女を紹介することに難色を示していたそうです。
それでも和田さんは諦めず、番組関係者を通じて会う機会をつくりました。
初対面から意気投合した2人1972年秋、2人は初めて顔を合わせます。
和田誠さんは当時36歳。広告デザインやイラストレーションの分野で活躍し、たばこ「ハイライト」のパッケージデザインなどでも知られていました。
一方のレミさんは25歳。歌手やラジオの仕事をしていた時期です。
2人は初対面から会話が弾み、和田さんの自宅でも話をするようになりました。レミさんは、和田さんが見せてくれた画集をきっかけに怪談の話で盛り上がったことも回想しています。
和田さんがフランク・シナトラのコンサートを見るためにアメリカへ出かけた際、レミさんは予想以上の寂しさを感じたそうです。
出会って約10日で結婚を決意帰国した和田さんから結婚を申し込まれると、レミさんは迷わず承諾したといいます。
本人は2026年3月の番組出演時に、出会って10日後に結婚したと語っています。
2026年5月の文春オンラインでは、本人の自伝『平野レミ大百花』から、初対面から約1週間で結婚を決めたエピソードも紹介されました。
「結婚を決めた時期」と「結婚した時期」を分けて考えると、本人が語る10日間のエピソードとも矛盾しません。
2人が結婚したのは1972年。和田さんは2019年に亡くなりましたが、長年にわたる夫婦の関係は、現在もレミさんの人生を語るうえで大切な要素になっています。
【料理愛好家への転身】1985年の「きょうの料理」初出演で注目
料理を仕事にするきっかけは夫・和田誠の友人歌手活動から離れたレミさんが料理の世界に進んだ背景には、和田誠さんとの結婚生活がありました。
和田さんは多くの文化人や芸術家と交流があり、自宅にも友人がよく訪れていました。レミさんは、そのたびに家庭料理を振る舞っていたのです。
料理の腕を認めた人物の一人が、ジャズピアニストの八木正生さんでした。
八木さんは食通としても知られ、料理雑誌『四季の味』で連載していたリレーエッセイの次の書き手にレミさんを推薦しました。
本人は文章を書くことに自信がなく、最初は断っていたそうですが、最終的に1回だけという約束で引き受けます。
これが料理の仕事につながり、テレビや雑誌からの依頼が増えていきました。
「料理研究家」ではなく「料理愛好家」を選んだ理由レミさんの肩書として知られる「料理愛好家」にも、和田さんの助言が関係しています。
本人は料理学校に通った経験もなく、料理の研究を専門的に続けてきたわけでもないため、「料理研究家」という呼び方には違和感があったといいます。
そこで和田さんに相談したところ、「料理愛好家」という表現を提案されたそうです。
料理が好きで、家庭の中で楽しみながら作る。そんな自分にぴったりの肩書だと感じ、現在まで使い続けています。
1985年「きょうの料理」初出演で視聴者を驚かせる平野レミさんがNHKの料理番組「きょうの料理」に初出演したのは1985年です。
最初に紹介した料理は牛肉とトマトを使った炒め物でした。
当時の放送で話題になったのが、完熟トマトを包丁で切らず、手で握りつぶして調理したことです。
従来の料理番組ではあまり見られなかった大胆な調理方法に、NHKには視聴者から抗議の電話が寄せられたと、本人が後年明かしています。
しかし、その型破りなスタイルは、結果的に平野レミさんの大きな個性として定着しました。
料理を専門的な技術や形式だけで考えるのではなく、家庭で手軽においしく作ることを大切にする。若い頃からの自由な発想が、料理の仕事にもそのまま生かされたのです。
【若い頃と現在を比較】写真で分かる平野レミの変わらない魅力
平野レミの若い頃の写真はどこで見られる?平野レミさんの若い頃の写真を探している人に注目してほしいのが、2025年9月26日に公開されたオーディオテクニカのインタビュー記事です。
同記事には、シャンソンを歌っていた頃の写真や、デビュー後の初リサイタルの写真、デビュー曲『誘惑のバイヨン』のレコード画像などが掲載されています。
料理番組で見かける現在の姿とは違い、歌手として舞台に立っていた頃のレミさんを確認できる貴重な資料です。
若い頃の平野レミさんが「かわいい」と話題になるのは、こうした写真から伝わる明るい表情や、歌手としての華やかな雰囲気も理由の一つでしょう。
ただし、かわいさの感じ方は人それぞれです。写真を見る際には、単純な容姿の比較だけでなく、当時のファッションや舞台での活動にも注目すると、歌手時代の魅力がより伝わります。
2025年、約35年ぶりにシャンソンの舞台へ料理愛好家として知られるレミさんですが、歌手としての活動が完全に終わったわけではありませんでした。
2025年12月3日には、東京・有楽町よみうりホールで開催された「ニッポン・シャンソン・フェスティバル2025」に出演しました。
大きなホールで歌うのは約35年ぶり。オリコンのライブレポートによると、『シャンソン・ド・レミ』『リヨン駅』などを披露し、クミコさんとの軽快なトークでも会場を沸かせました。
歌手時代を懐かしむだけでなく、長い年月を経て再びステージに立ったことは、2025年から2026年にかけての大きな出来事です。
2026年現在の平野レミは79歳2026年11月現在、平野レミさんは79歳です。
2026年1月14日には、中央公論新社から初の自伝『平野レミ大百花』が刊行されました。
本書では、おてんばだった少女時代、シャンソン歌手としてのデビュー、和田誠さんとの出会い、料理愛好家としての活動など、自身の歩みが語られています。
加えて、2026年3月25日にはNHK Eテレ「最後の講義」に出演。幼少期の家庭環境や高校中退、歌手時代、夫との思い出などを振り返りました。
同年7月にはNTTファシリティーズのインタビューにも登場し、料理や家族、歌への思いを語っています。
若い頃と現在で変わらないもの若い頃と現在を比べると、仕事の内容やメディアでの見られ方は大きく変わりました。
若い頃はドレスを着てシャンソンを歌い、銀座のステージを掛け持ちする歌手。現在はエプロン姿で料理を紹介し、家庭料理の楽しさを伝える料理愛好家です。
しかし、両者には共通点があります。それは、自分が好きなことを通じて人を楽しませたいという姿勢です。
歌で拍手をもらう喜びと、料理を食べた人が笑顔になる喜び。本人もインタビューで、音楽と料理には人と喜びを共有できる共通点があると語っています。
平野レミさんの魅力は、単に若い頃から明るかったということではありません。人生の節目ごとに、自分が本当に好きなことを選び直してきたところにあります。
【プロの結論】平野レミの若い頃を知ると現在の人気の理由が分かる
平野レミさんの経歴を振り返ると、料理愛好家という現在の肩書だけでは説明できない、多彩な人生が見えてきます。
千葉県松戸市での自由な幼少期、父親の影響で始めたシャンソン、銀巴里での歌手活動、1970年のレコードデビュー、和田誠さんとのスピード婚。そして家庭料理をきっかけにした料理愛好家への転身。
これらは別々の経歴ではなく、好きなことを追求してきた一人の女性の人生としてつながっています。
また、若い頃の写真を探す人にとっても、単に昔の容姿を確認するだけでなく、歌手としてどのような場所で活動していたのかを知ることが大切です。
平野レミさんをより深く知りたいなら、2026年刊行の『平野レミ大百花』や、2025年のシャンソン復帰に関するインタビュー・ライブレポートも参考になります。
【平野レミの若い頃】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:平野レミは若い頃、何をしていたのですか?
A1:若い頃はシャンソン歌手として活動していました。銀座の日航ミュージックサロンやシャンソン喫茶の銀巴里に出演し、1970年には『誘惑のバイヨン』でレコードデビューしています。
Q2:平野レミの出身地は千葉県ですか?
A2:生まれたのは東京都で、幼少期から千葉県松戸市で育ちました。父親は詩人・フランス文学者の平野威馬雄さんです。
Q3:平野レミと和田誠は本当に出会って10日で結婚したのですか?
A3:はい。本人が2026年3月のNHK Eテレ「最後の講義」で、出会って10日後に結婚したと振り返っています。2人が結婚したのは1972年です。
Q4:平野レミの歌手デビュー曲は何ですか?
A4:1970年に発売された『誘惑のバイヨン』です。シャンソンではなく歌謡曲として発表されました。
Q5:平野レミが「きょうの料理」に初出演したのはいつですか?
A5:1985年です。牛肉とトマトを使った炒め物を紹介し、トマトを手でつぶす大胆な調理方法が話題になりました。
Q6:2026年現在、平野レミは何歳ですか?
A6:1947年3月21日生まれの79歳です。2026年には初の自伝『平野レミ大百花』を刊行し、NHK Eテレ「最後の講義」にも出演しています。
平野レミさんの若い頃は、料理愛好家としての現在からは想像できないほど、音楽に満ちた日々でした。
千葉県松戸市で育ち、父・平野威馬雄さんの影響でシャンソンに親しみ、銀巴里の舞台に立ち、1970年に歌手デビュー。そして和田誠さんとの出会いを経て、家庭料理を仕事にする道へ進みました。
若い頃の写真から伝わる歌手としての華やかさと、現在の明るく自由なキャラクター。その両方に共通しているのは、好きなことにまっすぐ向き合う姿勢です。
2026年には自伝の刊行やテレビ出演を通じて、自身の人生を改めて語っています。約35年ぶりのシャンソン復帰も含め、歌手時代は過去の思い出にとどまりません。
料理愛好家としての平野レミさんを知っている人ほど、若い頃の歌手活動や和田誠さんとの出会いを知ることで、その人柄をさらに立体的に感じられるはずです。
主な参照資料・報道
- 中央公論新社『平野レミ大百花』(2026年1月14日刊行)
- NHK Eテレ「最後の講義」(2026年3月25日放送)
- オーディオテクニカ「Always Listening」(2025年9月26日)
- オリコン「ニッポン・シャンソン・フェスティバル2025」ライブレポート
- スポニチアネックス(2026年3月26日)
- 文春オンライン、NTTファシリティーズのインタビュー記事