目黒競馬場が開設されたのは、1907年(明治40年)です。当時の目黒は現在のような住宅密集地ではなく、農地が広がる郊外の地域でした。日本競馬会によって競馬場が設けられ、同年12月には4日間にわたる最初の競馬開催が行われています。
所在地は、現在の東京都目黒区下目黒四丁目から六丁目にまたがる一帯です。目黒消防署の裏手に広がる住宅街が、かつての競馬場跡地に当たります。東京競馬場の前身という位置付けであり、日本の競馬史を語るうえで欠かせない場所です。
目黒区の公式資料や東京馬主協会の沿革資料によると、目黒競馬場は単にレースを開催する施設ではありませんでした。東京近郊の競馬を統括する拠点としても機能し、1910年には東京競馬倶楽部の本拠地に選ばれています。
競馬開催日には、目黒駅から競馬場へ向かう観客が長い列をつくりました。盛装して観戦する人も多く、競馬場周辺には貸衣装店まで営業していたと目黒区の歴史資料に記録されています。
現在の目黒からは想像しにくい光景ですが、明治末期から昭和初期にかけて、競馬は地域の大きな娯楽であり、街のにぎわいを生み出す存在だったのです。
【馬券禁止の経緯】目黒競馬場を揺るがした1908年の発売禁止令

目黒競馬場の初期を理解するうえで外せないのが、1908年(明治41年)10月に実施された馬券発売禁止です。
日本では1906年から政府の黙許のもとで馬券発売が行われていました。しかし、競馬倶楽部の乱立や賭け事への過熱によって問題が目立つようになり、政府は規制に踏み切ります。
JRAの競馬用語辞典によると、1908年10月1日の新刑法施行後、同月6日に政府が馬券発売を禁止しました。競馬そのものが全面的に廃止されたわけではありませんが、観客が馬券を購入できなくなったことで、各地の競馬場は厳しい状況に追い込まれました。
馬券禁止で観客が激減した目黒競馬場目黒区の歴史資料によると、1910年7月に馬券発売禁止下で開催された競馬では、4日間の入場者が500人に満たなかったとされています。
馬券を買えない観客にとって、競走の結果を予想する楽しみは大きく損なわれました。加えて、競馬場内で密かに馬券を売買したとして、著名人など13人が検挙される事件も起きています。
商品券付きの勝馬投票で人気を取り戻す目黒競馬場は観客を呼び戻すため、大正3年(1914年)に新たな工夫を始めます。勝馬の的中者にデパートの商品券を贈るという余興です。
これは現在のような合法的な馬券発売ではなく、景品付きの投票企画でした。目黒区の記録では、この仕組みが人気を集め、1万2,000人を超える観客が来場したとされています。
その後、1923年(大正12年)に競馬法が公布され、同年7月1日に施行。馬券発売が正式に認められました。目黒競馬場は再び活気を取り戻し、翌年秋には2万5,000人を超える入場者を集めるほどの人気を獲得しました。
つまり、目黒競馬場の歴史は、開設から移転まで一直線に発展したものではありません。馬券禁止という制度上の危機を乗り越え、競馬人気の拡大とともに成長していった歴史でもあります。
【第1回日本ダービー】1932年、目黒競馬場でワカタカ号が歴史的勝利
目黒競馬場の歴史で最も重要な出来事が、1932年(昭和7年)4月24日に開催された第1回日本ダービーです。
正式名称は「東京優駿大競走」。イギリスのダービーを参考に創設された、3歳馬の頂点を決める競走でした。現在まで続く日本競馬を代表する大レースの出発点が、目黒の地にあったのです。
優勝馬はワカタカ号。「ワカタケ」ではない第1回日本ダービーを制したのは、ワカタカ号です。
検索では「ワカタケ号」と表記されることもありますが、JRAや目黒区の公式資料に記録されている馬名は「ワカタカ」です。歴史上の優勝馬を調べる際には、この違いに注意が必要です。
目黒区の公式歴史資料によると、当日のレースには19頭が出走しました。距離は2,400メートル。雨模様のなかで行われ、下総・三里塚産のワカタカ号が初代優勝馬となりました。
単勝式の払戻金は39円。当時の馬券は1枚20円で、1レースにつき1人1枚しか購入できませんでした。目黒区の記録では、当時の平均給与は月額60〜70円程度とされており、競馬観戦は決して安価な娯楽ではありませんでした。
第1回ダービーはラジオで全国に中継された第1回日本ダービーが画期的だったのは、競馬場に集まった観客だけでなく、全国の人々がレースの様子を知る機会を得たことです。
東京中央放送局(現在のNHK)は、レースの模様をラジオで全国に伝えました。目黒区の歴史資料には、19頭の馬が並ぶ様子やスタートを告げる実況の内容も紹介されています。
映像放送が一般化する以前、ラジオ実況は競馬の興奮を遠方の人々に伝える重要な手段でした。第1回ダービーは、競馬を競馬場内の娯楽から全国的なスポーツイベントへ広げていく象徴的な出来事だったのです。
トウルヌソル号とワカタカ号の親子関係もう一つ注目したいのが、ワカタカ号の父馬であるトウルヌソル号です。
トウルヌソルは日本の競馬史に名を残す種牡馬で、第1回日本ダービー優勝馬ワカタカの父に当たります。後年、目黒競馬場跡地に設置された馬の銅像も、このトウルヌソルをモデルにしています。
そのため、現在の目黒にある馬の像は、単なる競馬場跡のモニュメントではありません。第1回日本ダービーの優勝馬につながる血統の歴史を伝える存在でもあります。
【歴史年表で整理】目黒競馬場・日本ダービー・目黒記念の関係
目黒競馬場の歴史を理解するには、競馬場の開設、馬券制度の変化、日本ダービーの誕生、府中への移転を一つの流れとして見ることが大切です。
目黒区、JRA、東京馬主協会の資料をもとに、主要な出来事を整理しました。
目黒競馬場の名前を現在まで伝える競走が、JRAのGII重賞「農林水産省賞典目黒記念」です。
このレースには、目黒競馬場で開催されていた歴史があります。前身は1925年(大正14年)秋に実施された、距離3,400メートルの「各内国産馬、抽せん豪州産馬混合競走」です。その後、「各内国産古馬競走」と改称され、春と秋の年2回開催されていました。
そして1932年、競馬場の府中移転が決まった際、目黒の名前を後世に残すために「目黒記念」という競走名が付けられました。
ここで押さえておきたいのは、目黒記念が単に競馬場跡地を記念して後年につくられたレースではないという点です。移転前から存在した競走の歴史を引き継ぎ、名称を変更して存続させたものです。
JRAの競走史によると、目黒記念は当初3,400メートルで行われ、1950年秋から2,500メートルに短縮。1984年のグレード制導入時にGIIとなり、年1回の開催に整理されました。現在も東京競馬場を舞台に続いています。
つまり、目黒記念は目黒競馬場がなくなった後も、開催地の記憶を競走名として受け継いでいる存在なのです。
【なぜ府中へ移転した?】1933年の東京競馬場誕生と3つの理由
目黒競馬場が府中へ移転したのは1933年(昭和8年)です。現在の東京競馬場の歴史は、この移転から始まります。
目黒競馬場は第1回日本ダービーを開催するほどの人気を集めていました。それでも、なぜ長い歴史を持つ場所を離れる必要があったのでしょうか。
理由1:周辺の宅地化と地価・地代の上昇最も大きな理由の一つが、都市化による土地問題でした。
東京馬主協会の沿革資料によると、目黒競馬場の敷地は8割以上が借地でした。立地の良さから周辺の宅地化が進み、とりわけ1923年の関東大震災後は東京郊外の発展に伴って地価や地代が上昇しました。
競馬場は広い土地を長期間確保する必要があります。借地の割合が高い状態で地代が上がれば、競馬場を維持する負担も大きくなります。さらに周辺の住宅開発が進むことで、競馬場を拡張する余地も失われていきました。
理由2:競馬人気の拡大と施設の限界1923年の競馬法施行によって馬券発売が認められると、競馬の人気は急速に高まります。
目黒競馬場でも観客数が増え、既存の施設では十分な対応が難しくなっていました。東京馬主協会は、競走馬が能力を十分に発揮できる広大な馬場を持つ新競馬場を建設する必要性が高まったと説明しています。
府中市の公式資料も、目黒競馬場は施設拡張ができない敷地だったことを移転理由として挙げています。
単に観客が増えたから移転したのではありません。競馬の競技水準を高めるためのコース設計、施設拡張、土地の確保という複数の問題が重なっていたのです。
理由3:府中の誘致と競馬場に適した地形移転先の府中が選ばれた背景には、地域側の誘致活動もありました。
東京馬主協会によると、移転準備委員会は1927年(昭和2年)4月に正式発足。数十か所の候補地を検討し、1928年(昭和3年)12月に府中町を移転先として内定しました。
府中は多摩川水系による豊富な水と良質な青草に恵まれ、馬を管理する環境として適していました。さらに府中町が熱心に誘致活動を行い、地域を挙げて協力したことも決め手となりました。
1933年11月8日に東京競馬場の建設工事が完成し、同月18日に新競馬場での開催がスタートしています。移転後、最初の日本ダービーは1934年4月22日に行われ、フレーモア号が優勝しました。
目黒で生まれた日本ダービーは、開催地を府中に移しながら発展を続けていったのです。
【目黒競馬場跡の現在】外周道路・トウルヌソル像を巡る散策ガイド
2026年現在、目黒競馬場の跡地は住宅街へと姿を変えています。かつてのスタンドや観客席、競走路そのものは残っていません。
しかし、目黒区の公式資料には、競馬場の形状を伝える道路や記念碑、バス停など、現在も確認できる痕跡が紹介されています。歴史を知ってから歩くと、何気ない街路の風景が違って見えてきます。
1. 元競馬場の碑・トウルヌソル像最初に訪れたいのが、目黒区下目黒五丁目1番11号にある「元競馬場の碑」です。
目黒通り沿いの植え込みに設置された馬の銅像は、トウルヌソル号をモデルにしています。目黒区の公式広報によると、1983年(昭和58年)、第50回日本ダービーを記念して、日本中央競馬会と大鳥前元競馬場通り商店街振興組合の協力で建立されました。
第1回日本ダービーから50年という節目に、競馬場の歴史を後世へ伝える目的で設置された記念碑です。
像の馬がワカタカ号ではなく、その父トウルヌソル号であることも大切なポイントです。ワカタカ号の優勝を支えた血統の歴史を、現在の目黒で確認できる場所となっています。
2. 目黒競馬場のコース跡・外周道路跡地散策でも特に興味深いのが、かつての競馬場の外周を思わせる道路です。
目黒区の公式案内によると、多摩大学目黒高等学校裏の五差路から大きな半円を描き、その先は区立不動小学校まで直線的に延びる道があります。
住宅街の中に残るこの曲線は、かつての競馬場の輪郭を伝える貴重な痕跡です。現地には競馬場のコースそのものが保存されているわけではありませんが、道路の形状から、当時の敷地の広がりを想像できます。
目黒区が2025年に公開した目黒観光検定の紹介記事でも、住宅地に残る外周カーブが目黒競馬場跡地の見どころとして取り上げられています。
3. 元競馬場前バス停目黒通りにある「元競馬場前」というバス停も、歴史を伝える場所です。
競馬場がなくなった後も、その名称が地域の交通案内に残っています。普段は何気なく通り過ぎてしまうバス停ですが、明治・大正・昭和の競馬場の存在を現在へつなぐ地名の一つです。
トウルヌソル像もこのバス停周辺にあるため、初めて訪れる場合は「元競馬場前」を目印にすると分かりやすいでしょう。
目黒競馬場跡地を歩くおすすめルート初めての散策なら、次の順番で巡ると歴史のつながりを把握しやすくなります。
元競馬場前バス停
目黒通りから旧競馬場の所在地に入る目印。
元競馬場の碑・トウルヌソル像
下目黒五丁目1番11号。第50回日本ダービーを記念して建立された像を見る。
下目黒四丁目の外周道路
住宅街の中に残る曲線状の道路をたどり、競馬場の輪郭を想像する。
不動小学校方面
外周道路が直線へと続く方向。かつての敷地の広がりを感じられる。
目黒区が紹介する目黒不動付近の文化財めぐりは、目黒不動尊を出発し、競馬場跡や周辺の寺社を巡る2〜3時間程度のコースです。競馬場跡だけでなく、地域の歴史も合わせて知りたい人に適しています。
ただし、現在は一般の住宅や学校がある生活空間です。競馬場の遺構を見学するための施設ではないため、私有地への立ち入りや住民の迷惑になる撮影は避け、道路から静かに見学するのが基本です。
歴史的な建物や競馬場の施設を実際に見たい人には、現在の東京競馬場や競馬博物館の見学もおすすめです。一方、都市の中に残された歴史の痕跡を探すのが好きな人には、目黒競馬場跡の散策が向いています。
【目黒競馬場のよくある質問(FAQ)】
Q1:目黒競馬場は現在のどこにありましたか?
A1:現在の東京都目黒区下目黒四丁目から六丁目付近です。目黒消防署の裏手に広がる住宅街が跡地に当たり、トウルヌソル像は下目黒五丁目1番11号にあります。
Q2:第1回日本ダービーの優勝馬はワカタケですか?
A2:正しくはワカタカ号です。1932年4月24日、目黒競馬場で開催された第1回東京優駿大競走で、19頭の出走馬の中から優勝しました。
Q3:目黒競馬場はなぜ府中に移転したのですか?
A3:周辺の宅地化、地価や地代の上昇、借地中心の土地事情、競馬場の施設拡張が難しかったことなどが理由です。府中側の誘致活動や競馬場に適した地形も移転先選定の要因となりました。
Q4:目黒記念は目黒競馬場と関係がありますか?
A4:深い関係があります。目黒競馬場で行われていた特別競走を前身とし、府中移転後も目黒の名前を残すため、1932年に「目黒記念」と改称されました。現在もJRAのGII競走として続いています。
Q5:目黒競馬場跡には現在も競馬場のコースが残っていますか?
A5:競走路そのものは残っていません。ただし、下目黒四丁目の住宅街には外周の形を思わせる曲線道路があり、周辺には記念碑や元競馬場前バス停も残っています。
Q6:トウルヌソル像はいつ建てられましたか?
A6:1983年(昭和58年)です。第50回日本ダービーを記念して建立されました。トウルヌソルは第1回日本ダービー優勝馬ワカタカ号の父馬です。
目黒競馬場は、1907年(明治40年)に開設され、1932年の第1回日本ダービーを開催した、日本競馬史における重要な競馬場でした。
ワカタカ号が初代ダービー馬となった舞台は、翌1933年に府中へ移転。現在の東京競馬場へと歴史が受け継がれました。
その移転は、単なる開催場所の変更ではありません。都市化による土地不足、借地の地代上昇、競馬人気の拡大、競技施設の近代化という、当時の競馬界が直面していた課題への対応でした。
一方、目黒記念というレース名は、かつての競馬場の名前を現代に伝えています。加えて、トウルヌソル像や外周道路、元競馬場前バス停は、競馬場が存在した記憶を地域の風景に残しています。
【プロの結論】
目黒競馬場の歴史を読み解く際に注目したいのは、「競馬場は移転したが、その歴史は消えなかった」という点です。
第1回日本ダービーの優勝馬ワカタカ、父馬トウルヌソル、そして目黒の名を残す目黒記念。それぞれを結び付けると、現在の東京競馬場が突然生まれた施設ではなく、目黒の地で育まれた競馬文化を引き継いでいることが分かります。
2026年に目黒競馬場跡を訪れるなら、単に馬の像を見るだけでなく、道路の曲線や地名にも目を向けてみてください。普段の住宅街の風景の中に、日本ダービー発祥の地としての歴史が今も息づいています。