「綱ノ富士(つなのふじ)」は、歌謡コーラスグループ「純烈」のメンバーとして知られる白川裕二郎が、大相撲の力士時代に名乗っていた四股名です。白川裕二郎は1995年9月場所に朝日山部屋から初土俵を踏み、最高位は序二段99枚目。約1年間の力士生活を送りましたが、怪我や持病の腰痛が影響し、1996年9月場所を最後に引退しました。
四股名の由来は、出身地である横浜市港北区の綱島と、幼い頃から憧れていた大横綱・千代の富士です。力士時代には体重が105キロに達したこともありました。2026年にはテレビ番組でも当時のエピソードを改めて語り、注目を集めています。加えて、同年6月には2027年3月末での純烈卒業も発表されました。ここでは、綱ノ富士の読み方や相撲時代の戦績、引退の経緯から2026年現在の活動までを時系列で整理します。
【綱ノ富士とは?読み方は「つなのふじ」|純烈・白川裕二郎の力士時代】

綱ノ富士は、俳優・歌手として活躍する白川裕二郎の元力士時代の四股名です。読み方は「つなのふじ」。本名の白川裕二郎とは異なる名前で、大相撲の番付に記載されていた現役時代の力士名です。
白川裕二郎は1976年12月11日生まれ、神奈川県出身。高校卒業後、大相撲の朝日山部屋に入門しました。現在では純烈のリードボーカルとして知られていますが、芸能界に入る前には本格的な力士生活を経験しています。
相撲部屋に入門するきっかけとなったのは、通っていた柔道の道場でした。日刊SPA!の連載インタビューによると、道場に関連する接骨院を訪れていた朝日山部屋の先々代親方のおかみさんが、稽古に励む白川に目を留めたことが始まりです。
本人が相撲への興味を伝えたところ、ほどなく親方が自宅を訪れ、入門の話が進みました。もともと相撲好きの両親と大相撲中継を見て育った白川にとって、力士になることは子どもの頃から抱いていた夢でもありました。
朝日山部屋で過ごした力士時代白川裕二郎が所属した朝日山部屋は、実際に彼が初土俵を踏んだ相撲部屋です。入門後は力士としての基本を学びながら、厳しい稽古や共同生活を経験しました。
当時の白川は、現在のスリムな印象とは異なる体格でした。スポーツニッポンの2022年の報道では、本人が力士時代に毎日ご飯を一升食べ、体重が105キロまで増えたと振り返っています。
また、2026年4月に放送されたBSフジの「飯島直子の今夜一杯いっちゃう?」でも、純烈のメンバーとともに当時の相撲経験を回顧しました。芸能界に入る前に本当に相撲部屋に所属していたのかという質問に対しても、本人が入門経験を語っています。
【朝日山部屋での初土俵から最高位まで|綱ノ富士の経歴・戦績年表】
白川裕二郎の大相撲生活は、1995年9月場所から1996年9月場所までのおよそ1年間です。初土俵では本名の「白川」を名乗り、その後、1996年7月場所から綱ノ富士に改名しました。
最高位は序二段99枚目。幕内や十両に昇進した経歴はありませんが、短い現役期間の中で序ノ口から序二段へと番付を進めています。
綱ノ富士の力士時代・基本データ| 項目・時期 | 内容 | 詳細・備考 |
|---|---|---|
| 本名 | 白川裕二郎 | 純烈のリードボーカル |
| 所属部屋 | 朝日山部屋 | 高校卒業後に入門 |
| 初土俵 | 1995年9月場所 | 本名の白川で出場 |
| 四股名の変更 | 1996年7月場所 | 綱ノ富士に改名 |
| 最高位 | 序二段99枚目 | 序二段まで昇進 |
| 最終場所 | 1996年9月場所 | この場所を最後に引退 |
| 現役期間 | 約1年間 | 1995年から1996年 |
| 生涯戦績 | 16勝12敗14休 | 7場所・前相撲を含む |
| 力士時代の体重 | 一時105キロ | 本人がテレビ出演時に回顧 |
生涯戦績は16勝12敗14休です。日刊SPA!の連載記事では、前相撲を含めて7場所の記録として紹介されています。
この数字から分かるのは、現役期間が短かっただけでなく、休場も多かったということです。怪我の影響が競技生活に及んでいたことを考えると、単純に勝ち負けだけで当時の実力を評価するのは適切ではありません。
なお、序二段99枚目という最高位は、現在の芸能活動で知られる白川裕二郎の経歴を理解するうえで重要な記録です。後年の知名度から、現役時代も上位で活躍した力士だったと想像する人もいますが、実際の番付は序二段でした。
【綱ノ富士の四股名の由来は綱島と千代の富士|横綱への憧れ】
綱ノ富士という印象的な四股名には、白川裕二郎自身の出身地と、幼い頃からの憧れが込められています。
2026年4月のBSフジの番組出演時にも改めて語られた由来は、次の2つです。
「綱」は横浜市港北区の綱島から白川裕二郎の出身地は神奈川県横浜市港北区の綱島です。四股名の最初にある「綱」は、この地名から取られています。
綱島は白川にとって生まれ育った地元であり、本人が大切にしていた場所です。単に力士らしい勇ましい漢字を選んだのではなく、自分のルーツを名前に残そうとしたところに特徴があります。
「富士」は憧れの横綱・千代の富士からもう一つの由来は、昭和から平成にかけて大相撲を代表した横綱・千代の富士です。
白川は幼い頃から千代の富士に憧れていました。両親も相撲好きで、家庭で大相撲中継を見る機会が多かったことが、力士を目指す気持ちにつながったといいます。
そのため、憧れの横綱と同じ「富士」の文字を四股名に取り入れたいと考えました。
つまり、綱島の「綱」と千代の富士の「富士」を組み合わせたものが「綱ノ富士」です。本人も2026年のテレビ出演で、横綱のような立派な名前になったという趣旨の説明をしています。
四股名の意味を整理すると- 綱:出身地である横浜市港北区・綱島に由来。
- ノ:2つの言葉をつなぐ表記。
- 富士:憧れの大横綱・千代の富士に由来。
ここで注意したいのは、「綱」が横綱の綱そのものを意味するわけではない点です。横綱を思わせる堂々とした響きはありますが、名前の由来として本人が説明しているのは、あくまで地元の綱島と千代の富士への憧れです。
なお、綱ノ富士の四股名は朝日山部屋の伝統的な名称を引き継いだものというより、本人の思いを反映した名前として理解するのが正確です。
【白川裕二郎の引退理由は怪我と腰痛|約1年で相撲を辞めた経緯】
綱ノ富士が約1年という短期間で引退した最大の理由として報じられているのが、怪我です。特に、以前から抱えていた腰痛が悪化したことが、現役生活を続けるうえで大きな問題になりました。
もともとの腰の不調が稽古で悪化2018年2月のデイリースポーツの記事では、白川が持病の腰痛を悪化させ、1995年の初土俵から約1年で引退した経緯が紹介されています。
相撲は、立ち合いで相手とぶつかるだけでなく、組み合った状態で相手の体重を受け止め、投げや寄りなどの動作を繰り返す競技です。腰には大きな負荷がかかります。
特に、体重を増やしながら力士としての体をつくっていた白川にとって、稽古による身体的な負担は無視できないものでした。もともと腰に不調を抱えていたこともあり、競技生活を継続するのが難しくなったと伝えられています。
1996年9月場所を最後に引退白川裕二郎は1996年7月場所から綱ノ富士を名乗りましたが、その後も怪我に悩まされ、同年9月場所を最後に力士を引退しました。
2026年4月のENCOUNTの報道でも、番組内で引退理由を尋ねられた白川は、怪我をして辞めたという経緯を説明しています。
したがって、綱ノ富士の引退については、持病の腰痛と怪我によって相撲を続けることが難しくなったというのが、本人の説明や当時を振り返る報道から確認できる経緯です。
引退後に待っていた俳優への転身相撲を辞めた後、白川はすぐに芸能界で成功したわけではありません。日刊SPA!のインタビューによると、引退後は目標を見失い、アルバイトを転々とする時期もありました。
そんな白川に次の道を示したのが母親でした。母親の勧めで劇団俳優座の研修生となり、演技を学ぶことになります。
本人にとって相撲の引退は、単に職業を変えたというだけではありません。子どもの頃からの夢を失った経験であり、その後の人生の方向を改めて考える転機になりました。
【力士引退後は俳優から純烈へ|白川裕二郎の異色の経歴】
白川裕二郎の経歴は、力士から俳優、そして歌手へと大きく変化しています。綱ノ富士時代を知ることで、現在の純烈での活躍が、まったく異なる分野への挑戦を重ねた結果であることが分かります。
2002年『忍風戦隊ハリケンジャー』で俳優デビュー劇団俳優座で演技を学んだ白川は、その後、俳優として活動する道を選びました。
大きな転機となったのは、2002年から放送された特撮ドラマ『忍風戦隊ハリケンジャー』です。白川は霞一甲、カブトライジャー役を演じ、俳優として広く知られるようになりました。
元力士という経歴に加え、長身で端正な容姿を持つ白川は、戦隊ヒーロー作品でも存在感を発揮しました。
2007年に純烈へ加入、2010年にメジャーデビュー白川裕二郎が純烈のメンバーとして活動を始めたのは2007年です。リーダーの酒井一圭から声をかけられ、歌謡コーラスグループの一員として新しい挑戦を始めました。
純烈は結成後、温浴施設や健康センターなどで地道にライブ活動を続け、2010年6月23日に「涙の銀座線」でメジャーデビューを果たしています。
グループが掲げてきた目標は「夢は紅白!親孝行!」。白川自身にとっても、母親に喜んでもらいたいという思いは、力士を目指した頃から一貫した人生の動機でした。
紅白歌合戦8年連続出場という実績純烈は2018年に初めてNHK紅白歌合戦へ出場しました。その後、2025年まで8年連続出場を達成しています。
2024年には初の単独日本武道館公演を成功させ、2025年には初のドキュメンタリー映画も劇場公開されました。温浴施設を中心に活動していたグループが、全国的な知名度を持つ存在へと成長したことを示す実績です。
白川はその歩みを支えるリードボーカルの一人として、グループの中心的な役割を担ってきました。
【白川裕二郎の2026年現在|純烈卒業と今後の活動】
2026年現在、白川裕二郎は純烈のメンバーとして活動しています。ただし、2026年6月8日に所属事務所と本人から、2027年3月末をもってグループを卒業することが正式に発表されました。
2026年6月に2027年3月31日付の卒業を発表2026年6月8日、白川は純烈のメンバーである酒井一圭、後上翔太とともに会見に出席し、2027年3月31日をもって純烈を卒業することを報告しました。
ENCOUNTの会見報道によると、白川は卒業の意向を約5年前から伝えていたと説明しています。
また、2025年10月に母親を亡くしたことも公表しました。母親の死を経験したことで、純烈を続けるモチベーションや情熱に変化が生じ、十分な気持ちを持たないまま活動を続けることは良くないと考えたことが、今回の決断につながったと説明しています。
これは1996年の相撲引退とはまったく異なる事情です。綱ノ富士時代の引退は身体的な怪我が理由でしたが、2027年の純烈卒業は、自身の人生や今後の生き方を考えたうえでの選択です。
2026年11月現在も純烈の活動を継続2026年11月4日現在、白川はまだ純烈のメンバーです。
純烈の公式プロフィールでは、2026年にシングル「ありがとう」をリリースし、全国ツアーを展開していることが紹介されています。公式サイトにも11月4日のコンサートをはじめ、11月以降のライブやイベント日程が掲載されています。
したがって、2026年は卒業を控えながらも、グループの一員としてファンと過ごす時間を大切にしている時期です。
卒業後は事務所に残留、個人活動は本人のペースで所属事務所G-STAR.PROの2026年6月8日付の発表によると、白川は純烈を卒業した後も同事務所に所属し続ける予定です。
卒業後については、まず本人の時間や家族との時間を大切にし、今後の活動は本人のペースを尊重しながら改めて報告するとされています。
つまり、2027年3月の卒業は芸能界からの引退や事務所からの退所を意味するものではありません。俳優・歌手として今後どのような活動を行うかは、2026年11月時点では具体的に確定していません。
綱ノ富士という四股名を調べる際には、単に「純烈の白川裕二郎は元力士だった」という情報だけでは不十分です。経歴を正しく理解するためには、次の3つの視点が重要です。
1. 四股名には本人のルーツと憧れが反映されている綱ノ富士という名前は、綱島という地元への愛着と、千代の富士という憧れの存在を組み合わせたものです。本人が自らの背景を名前に込めた点は、単なる芸名や力士名以上に興味深い部分です。
「横綱のような名前だから、実際に高い番付まで昇進したのでは」という印象を持つ人もいますが、実際の最高位は序二段99枚目でした。名前の印象と競技実績は分けて理解する必要があります。
2. 引退理由は腰痛・怪我と、確認できる経緯を区別する相撲時代の引退については、本人が怪我を理由に挙げており、過去の報道では持病の腰痛悪化も伝えられています。
一方、特定の手術や細かな診断名、治療経過などについては、広く確認できる本人の説明や報道が限られています。腰痛と怪我という公表された説明を軸に理解することが適切です。
3. 2027年の純烈卒業と1996年の相撲引退を混同しない2026年の検索で特に注意したいのが、2つの引退・卒業を混同しないことです。
1996年の引退は、力士としての身体的な事情によるものです。一方、2027年の純烈卒業は、長年のグループ活動を振り返り、自分自身の人生や今後の時間について考えた結果として発表されました。
また、卒業後も所属事務所に在籍する予定であるため、芸能活動そのものを終了するという意味ではありません。
綱ノ富士という名前を入り口に白川裕二郎の経歴を追うと、相撲、俳優、歌手という異なる舞台で新しい道を選び続けてきた歩みが見えてきます。短い力士生活も、その後の人生を形づくった重要な転機だったのです。
【綱ノ富士・白川裕二郎に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:綱ノ富士の読み方は何ですか? A1:綱ノ富士は「つなのふじ」と読みます。純烈の白川裕二郎が大相撲の朝日山部屋に所属していた時代の四股名です。
Q2:綱ノ富士の四股名の由来は何ですか? A2:横浜市港北区の綱島から「綱」を、憧れの横綱・千代の富士から「富士」を取り、組み合わせた名前です。
Q3:白川裕二郎の力士時代の最高位と戦績は? A3:最高位は序二段99枚目です。生涯戦績は16勝12敗14休で、前相撲を含む7場所の記録として紹介されています。
Q4:白川裕二郎が相撲を引退した理由は何ですか? A4:怪我が主な理由です。過去の報道では、以前から抱えていた腰痛が悪化したことも伝えられています。1996年9月場所を最後に引退しました。
Q5:白川裕二郎は2026年現在も純烈に所属していますか? A5:はい。2026年11月現在は純烈のメンバーとして活動しています。ただし、2027年3月31日をもってグループを卒業することが2026年6月に発表されています。
Q6:白川裕二郎は純烈卒業後に芸能界も引退するのですか? A6:芸能界からの引退は発表されていません。卒業後もG-STAR.PROに所属し、まずは自身や家族との時間を大切にする方針です。その後の具体的な活動は本人のペースで報告される予定です。
綱ノ富士は、純烈の白川裕二郎が1995年から1996年にかけて朝日山部屋で名乗っていた四股名です。読み方は「つなのふじ」。綱島の「綱」と千代の富士の「富士」を組み合わせた、本人の地元愛と憧れが込められた名前でした。
1995年9月に初土俵を踏み、最高位は序二段99枚目。力士時代には体重105キロまで増えたこともありましたが、怪我や腰痛の影響で1996年9月場所を最後に引退しています。
その後は劇団俳優座で演技を学び、『忍風戦隊ハリケンジャー』で俳優デビュー。2007年に純烈へ加入し、2018年から2025年までNHK紅白歌合戦に8年連続で出場するなど、歌手としても大きな実績を残しました。
2026年11月現在は純烈のメンバーとして活動を続けていますが、2027年3月31日にはグループを卒業する予定です。卒業後も所属事務所に在籍するため、今後の俳優・歌手活動にも注目が集まります。
綱ノ富士という四股名は、白川裕二郎の芸能人生とは別の過去を示すだけの名前ではありません。夢を追い、怪我による挫折を経験し、その後も新しい舞台に挑戦してきた彼の人生の出発点を象徴する名前なのです。
主な情報根拠: 日刊SPA!の本人インタビュー、デイリースポーツ、スポーツニッポン、ENCOUNT、純烈公式プロフィールおよび所属事務所の2026年6月8日付発表。